2学期に行われる大手の塾の合不合判定では、幸いにしてよい成績をとっておりました。テスト結果によって、志望校が3段階(チャレンジ校、実力適正校、合格有望校)で評価されるのですが、第一志望校は合格有望校で、合格可能性がともて高いものでした。また過去問を解いても、どの年度も合格ラインを超えていて、調子がいい時は4科目中3科目で合格ラインを超えるというぐらい、全く問題ないというものでした。
私の方も、過去問を見て傾向など探り予想問題など作成したりしてサポートしました。実際に作成した予想問題は他の年度に出題されていたこともありました。
このような感じで受験の日々を送っていましたので、志望校に落ちるということは全くと言っていいほど考えておらず、99%合格するだろうというぐらい自信がありました。
しかし、試験当日の朝、子供の姿を見たとき、あれ、いつもと感じが違うなぁという印象もちました。それが嫌な予感の始まりでした。
試験会場に行くと、学校敷地内は、校舎に向かう通路の両側には応援に駆け付けた塾の先生、先生、先生、、、で。異様なほどの熱気です。その状況を背に、子供は試験が始まる校舎へと吸い込まれるかのように消えていきました。
試験後、子供が“算数と国語の手ごたえが全くない。今までこんなの初めて。。。”、と。そうはいっても今までの実績から大丈夫だろうと思っていましたが、あくる日の合格発表には、子供の受験番号はありませんでした。
あくる日行われた二校目の受験から帰ってきた後に、落ちたという報告を受けた時の、本人の落胆ぶりはありませんでした。ほぼ、予想はしていたものの、実際にその知らせを聞かされると相当、きついものです。あくる日も、“学校に落ちたのが悔しんじゃない。通えないのが悔しい。”と話している子供に掛ける言葉見つかりませんでした。その日は国立の受験がありましたが、子供の状態を見てその受験をとりやめました。
第一志望であった学校は私の母校でもあり、それを知っていた分、子供は行きたいという気持ちや親の期待に応えたいという、必要以上の思いやプレッシャーがあったと思います。
1週間後には、かねてから計画していたスキー旅行に行きましたが、その旅行先のお風呂で、“僕が行く学校に○○君が行くから、第一志望に落ちたんだよ”と、幼馴染の子を言い訳して気遣う子供を、しっかりと見ることは出来ませんでした。大学受験は本人の意志、中学受験は親の思いと考えている私には、非常につらい思いを子にさせてしまったと、申し訳ない気持ちでした。
“決まった学校がその子が行くべき学校”という話がありますが、そう思えるようになるには、子供が活き活きと学校生活を送っている姿を見られるようになってからでした。ただ、本当の意味で、落ちたこと、通えなかったことが、人生にとって子供にとって、親にとって、どのような意味を持つのかを私自身理解するまで、更に数年たってからのことでした。自分自身の経験や、他の人の話、様々な本のおかげで、目に見える事柄を違った角度から見ることができるようなり、通えなかったことにはそれなりに意味があり、むしろ、その方が人生を豊かにするのだなと、気づかされました。
子供の方は、同じ学校に通う友達と部活や学園祭を通して、とても楽しく学生生活を送り、高校2年生の頃、狭き門である医学部へ行きたいと話し始めました。よく頑張ったと思います。防衛医大、慈恵医大、慶応医学部、東大理Ⅲを受験して、最初の3つに合格し慶応医学部に進学し医者という道を歩み始めることになりました。